昭和五十六年十月四日 朝の御理解


御理解第一節
「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」


 今日はここの御理解というところがありますね。教典の、このここん所を頂いたんです今日は。御(おん)理解とこうある。だから、これは、ですから、こりゃまあサブテーマーと申しますか、御理解第一節を聞いて頂こうと思います。
 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」と、言うなら今日の御理解という、理解せよと、分かれという事。どういう事を先ず分からねばならないかと。例えば成程神様の働きだなあとか、又は神様の働きとは、こういう不思議な働きをも頂けるもんだなあという事が、先ず信心を始めてお願いをしておかげを頂いて分かる事です。いわゆる神様の働きを分かる。しかもその働きが段々分かってくるに従って十全の働きであるという事が分かってくる訳。分かる、理解する訳です。それで、皆さんの信心がどこがどういうふうに分かっておるかという事を、まあ確かめていかなければならない。御理解(おんりかい)とある。
 いわゆるここで言われる総ての事に御の字をつけて頂くという事。総ての事柄を言うなら神様の御働きとして頂く。神様の御働きという事が分からなければいけない。それは自分の都合の良い事悪い事すべてが神様の御働きなのだからね。それを言うなら神愛として受けなきゃならん。すべてに御の字をつけて、だから頂くという事になる。という事が先ず分からなければいけないね。
 同時に理という事は、これは王様の王を書いて里と書いてある、ね。皆さんの心の故郷を、まあ合楽教会。自分の心のいうならば本当な事が理解出来た、本当な事が分かった。翻然としてね、この世の中には一切神愛のみだけしかないというような事が、誕生、心がそういう心が誕生する。心のふる里である。その親が天地の親神様である、天地金乃神様であると。
 ね、それを合楽では、まあ最近、天地人一如というふうに申しますね。天と地とそして人と言ったような言葉にも表現される訳です。兎に角金光様の御信心は、私共が天地の心を心として、その天地の中に入って行くという事。天と地と人と、言うなら天地の中にこう入って行く。天地人一如の世界。ね、大変難しいようですけれども、そういうところを、私は一つの今天地の開ける音を聞いて目を覚ませとおっしゃられる一つの大きな分かる事から悟らせてもらうという事。ね、話を聞いて、それもかたやおかげを頂いて、成程神様の働きというのは、まあ十全だなあとか、ね、神様の働きて本当にこちらが一心になってお願いすれば必ずその働きを見せて下さるもんだなあとか。
 ね、昨日の婦人大会が、あのように盛大に、まあ一年一年充実した大会がもたれるようになって有難いと思いますが、昨日は、講師が若先生で、私は、もう言うなら無役の所で会に参加さして頂いとった。たら、あれにパンフレットに親先生お言葉とあるから、最後に皆さん今日はおめでとうございましただけでよいと思うとったところが、ちょっと時間をよく見たところが一時間半位話さんならんようなふうになってる訳です。おろ、そんな事、そんなら何を話そうかと思うて下から会場へ出らせて頂いとりましたら、あの上がり口の二階に上がった所に矢部の後藤さん達一家一門というでしょうか、の人達が帰りよりました。
 はあ、親先生にお会いしてよかった、と言う。先日からお願いしとりました親戚の子供、まあ五歳でしたでしょうかね。息子の子の医者に、言うならば見放された。この病気は仕方がないというふうに言われて初めて、あの合楽にお参りせろと、その病気が白血病であった。成程現代の医学じゃどうにも、まあ仕様のない程しの病気らしい。ね、けれども半信半疑で、もうそれこそ親戚中の者がお願いに来ました。一月(ひとつき)前でした。ね、ところが、おっつあんとかおばさんとかいう、又姑親とかという人達ばっかりと後藤さんでしたから、私がね、子供のそういう生か死かといったような事を願うのに親が参って来んでどうするかと。親はずうっと東京の方へ、何ですか、大きなトラックに乗って、そのいつも居ないと、こう言う。母親は病人に付ききりだと。だから親戚中の者でお願いをする。
 だから私が申しました。そのおばあちゃんという人が、おばあちゃんが娘と替わってから、娘じゃなからにゃいかん。親でなからにゃ。んなら、その子のお父さんになるとも、そういう例えば仕事をしとっても一日二日、一回二回は休んでもよいから参って来い。どうしても参って来い。
 こりゃ皆さん、私がどうしてもというような時にゃ、どうでもおかげ頂かにゃいかんですよ。もうそげん時にゃ必ずおかげ頂く時です。それからもう出来るだけ参らんで親戚中のもんでお願いそのかわり来たつ、だからといったようなふうな雰囲気でしたけれども、どうでも、それで父親が一日お休みとってお参りして来た。それであんただけではいかん。こりゃやっぱ奥さんが参ってこにゃいかん。母親が参ってこにゃいかん。と言うので、母親もそういう子供に付ききりに付いとりましたけれども、誰か手替わりをして、そしてお願いにまいりました。
 私は、この辺の所に非常に信心のデリケ-トな所があると思うですね。これは別に信心がでけておる訳でもないのですけれども、息子の言うなら死ぬか生きるかという時にいくらどういう事だって、どういう事情があっても親が願ったが一番だと、私は思いましたから、まあいうなら無理して参って来た事でございましょう。それから何回かお参りがありました。親戚の方達もやっぱ後藤さんを通して参って来よりました。その一家族の人達が昨日、丁度私が上へ上がった時に帰りかかったところでした。今日は皆でお礼に参拝、退院のおかげを頂きましたからち。私も実はびっくりしました。当の本人の子供も連れてお礼参拝しとるところでした。それで、信心は分からんもんだから、あの帰って、もうお礼に行ったからそれですんだと言ったような感じでしょうね。帰っておったから、おおうそりゃ今から私の話があるとじゃがお話だけ聞いて、そして帰りなさいと言うて、したから、そんならお話だけお話を頂こうと言うて、まあ皆とまりましたがね。
 そういう話は合楽では、いつも皆さん頂かれるとおりね。だからそういう事が信心ではないという事。但し言うならば、神様のいうなら働きが十全であるという事。本当は神様にお願いして、こちらがその気になって願えば出来ない事はない。助からん者でも助かる。いや死人でも蘇る程しのおかげにもなる事実をね、合楽では沢山見せて下さってあるというふうに思うんです。ね、その事によってです、言うならば神様の言うなら働き、又各々がおかげを受けて合点がいく訳です。神様の働きという。ですから、その働きがわかったのですから、ね、言うなら段々理解、いや、起きてくる総ての事が神様の御働きとして受ける。御の字をつける。つけて受けるものだという事が先ず分かる。そして段々一つの情念の世界というかね、いうなら私共が分かっておるその神様こそ、私共の全身全霊のふる里である所のね、天地金乃神様である。又合楽教会は、そういう心の誕生をさして下さった所であるという時に合楽教会が心のふる里であり、私共の願っておる、対象としておる神様は、その親神様であるという事が分かるという事が、理解の、王の里である。神様の里である。私共の里である。ね、そこにいうならば切ろうとしても切れないという事が分かる。親との子とのいくらも勘当したの縁を切ったのと言うても、やはり親子の血のつながりというものが切れませんように、私共と天地の親神様との間には、そういう関わりあいがあるという事が分かる。そこに言うならば、合楽へ合楽へと通わずにはおれないね。
 御理解の解という字。角(つの)へんにこう刀を書いて牛という字が書いてある。私は、だから私共がいかに神様が分かり、神様に接しよう天地人一如の世界に住むようなおかげも頂きたいと言うても、私共が汚れ果てておったりね、天地とは異質なものであっては一緒になれない。油と水が一緒にならないように、天地が水ならこちらも水の性にならなければ一緒にはなれないという事。それには、私共の家のめぐり身のめぐりというものが解かれなければならない。お取り払いを頂かなければならない。ね。私は解(かい)という字から、そんなものを今日は感じたんです。
 ね、言うならば先ずめぐりのお取り払い。やれ痛や今霊験をという心になれよというような心が開ける。神様の心が分かり心にそい奉ろうとする。いくらそい奉ろうとするというても、いかに側に寄っても、ね、それが異質なものであっては分離しなければ仕方がない。水と油が分離するようなものである。ね、そこで神の心を心する生き方をです。なら合楽理念は説く訳です。信心とは本心の玉を磨くものぞや、日々の改まりが第一ぞというふうに説く訳です。
 改まる事に磨く事にしていく時に、例えばそれを異質のものでありましても、そういう一念を燃やして神様の心にそい奉りたいという精進をしとれば、その事が成就したかのようにして神様の懐の中に飛び込む事が出来る。天地人一如の世界に住む事がでける。ね、金光教の信心は、いうならこの御、理、解、という事をです、なぜ御の字をつけなければならないか。なぜ合楽へ合楽へと皆さんの心が向かうような心の状態が開けてくるか、ね。それは自分の心のふる里であるからだという事。として、なら神様と接したい神様と一緒になりたいと、こう言うてもね。異質のものであっては一緒になれない。
 そこで信心とは本心の玉を磨くものだ、日々の改まりが大事だという事に、そういう事なんだ。そういうものだという事が分かるという事が、私は今天地の開ける音を聞いて目を覚ました時ではなかろうかというふうに思うんです。今のその三つの事を、よくもう一遍日頃の御理解から頂いてみて下さい。
 だからめぐりのお取り払いを頂いておる事。私共の心のふる里である事。又、私共全身全霊のその親様である天地金乃神様である事。その働きを受ける。その働きそのものが良い事悪い事神様の神愛の現れであるから、それを御の字をもって御の字を、御事柄として受けるような心の状態がでけなきゃならんのだ。だからそうなのだという事を分かるという事。御の字が分かり、理解の理が分かり、解の解という字をです。私が今日説きましたような意味で皆さんがそうだと分かったところから、私は本当の信心が育ってくるのじゃないかというふうに思うんです。
 只はあ、神様ちゃ目を見張るようなおかげを下さる。本当にこれが奇跡というのであろうかと、そういう、ならおかげだけに眩惑されておるとね、おかげおかげで一生おかげ信心で終ってしまう。痛かりゃ痛いち言うて、言う。苦しけりゃ苦しい。その苦しい、けれども有難いというものが生まれてこない。
 ここの今日私が申しました三つの所をふんまえての信心になる。そうだと分かった時、初めて心に一つの悟りが頂けた時である。ね、今天地の開ける音を聞いて、いわば眼を覚ました時である。そこに信心がいよいよ本当なものになってくるという事になるのですよね。どうぞ。